「あっ、望月さん遅かったね。こっちこっち。一緒だよ」
「あら、本当?」
「また一年よろしくねー」
「こちらこそ。」
にこにこと少女に話しかけるのは、去年も同じクラスだった女子たち。こうして既に知っている人間ならばまだいいのに、と少女は掲示を無視して教室へ入る。
「なんか変わってんなこれ」
「カタカナ、外人?」
すれ違いざま、聞こえてきたクラス前でたむろする男子の会話にピクリ、と身体が反応する。
……この私の目の前で、いい度胸だ。
話題にされているのは多分自分、に違いない。ああ、だから嫌なのだ。新学期なんて。クラス替えなんて。まあいい、あの男子たちにはそのことを二度と口にしない「おまじない」をしてあげるから。
苦虫をかみつぶすような思いで、手招きされた先の席に着く。
さきほどの男子の視線の先に、しっかりと書いてあるだろう。
望月――ドビン、と。
名前、である。紛れもなく自分の。
身寄りのない自分たち姉妹を引き取ってくれた養い親が、大真面目に考えて付けてくれた、愛すべき名前。
この一風変わった名前が、少女が朝から漏らし続けたため息の発生原因そのもの、「不利」と嘆いたコンプレックスの正体だ。まだ漢字で「土瓶」じゃないだけマシかもしれないが、名づけ親のネーミングセンスは悪いというレベルではない。皆無である。哀れ少女はこのおかげで、新学期のたびにからかわれたり笑われたりいじめられたり……なんてことは全くないのだが、それは自己防衛の成果であって、ドビンという名が周囲にとって奇異なものであることに変わりない。
少女のやっかいになっている家、戦国時代活躍したくのいちの流れをくむ養い親は、現代でも加持や祈祷を生業としていて、そこで育った少女自身もよく当たる占いやおまじないという大変「便利な特技」を持っている。
その「便利な特技」のおかげで、彼女を知る人間のあいだには一種暗黙の了解とも言える掟があるのだ。
さわらぬ神にたたりなし、呼ばぬ名前に呪いなし――つまり下手に怒らせてはならない、と。
そんな訳で、現段階で彼女を「ドビン」と呼ぶのは姉を含むごく限られた人間しかいない。
(ちなみに、姉の名は「こんぶ」だったが――今は家出した先でまともな名前をもらっている。)
一刻も早く、自分の最大の汚点を衆目にさらしてくれているあの掲示を剥がしてしまいたい、という衝動に駆られながらも、大人しく窓際の席についていると、級友の一人が話しかけてくる。
「ここ誰?座ってもよさげ?」
「あ……見てなかったですわ。」
そういえば、自分の前の席はさっきからずっと空いたまま。荷物を置いて遊びに出ている様子もない。そろそろチャイムも鳴るというのに、初日から遅刻とはいい度胸だ。でもまあ、一人でも多く自分の名前を聞かないでいてもらえるなら、欠席でも早退でもかまわないけれど――
「ちょっと見てきます。」
ふと気になって、掲示を見に再び廊下へと出てみる。
3年3組、34番・望月ドビン。ああ、こんなに堂々と書いてくれちゃって。
そして惜しい、ゾロ目じゃない。じゃあ自分の一つ前の、右隣に並んでいる名前は。
「33番・れお……――レオ=ミヤマリョーノ!?」
※
雑音の中に聞きなれた単語をひとつ拾って、はっと少年は顔を上げる。
今、聞こえなかったか?自分の名前が呼ばれるのを。
「ミヤマって、なんでカタカナ?外人?」
「レオ、ですし、そうなんじゃないかしら…?」
先ほどから見飽きた掲示を指さして、何事かを喋るスカート姿の女子。今確かに言った、「Leo」、つまり自分の名前を。ということはやはり、あの中に自分の名前はあったのだろうか。
目を凝らしてもう一度見てみる。よく考えればローマ字で書いてあるとは限らない。そしてカタカナ、そうか、そういえばそんなものもあったっけ、と嫌々覚えた記号を思い出す。33番・し才……ではなくて、レは、れ。オは、お。「Leo」は「レオ」で、これがここでの自分の名前か。
「ミヤマリョーノって、下の名前?何人?長いね」
「カタカナだから余計に目立ちますわ」
話している様子から察するに、どうやら少数派らしい。だが、自分の隣。なんとか「ツ」「ソ」いや、「ン」だったか?とにかく他と比べて簡素で角ばった文字。たしか、ひらがなではないはず。これはもしかして、自分と同じ立場の人間なのだろうか。そうかもしれない。隣に並んでいるわけだし、きっとそうだろう。そういうことなら、先に言ってくれればいいものの。
本人は自覚していないものの、非常に心細い状況にあった少年には、隣の名前が「仲間」に見えたようだ。思い込んでしまえば話は早い。行くべき場所は分かった訳だし、次はその仲間を探してみようではないか、とさっきまでのギスギスした様子はどこへやら、機嫌はすっかり元通りである。
「アノ」
「!」
自ら話しかけてみると、ここまではさきほどと同じ反応。顔に「こいつがこの名前の主か」と書いてある。それはいい。それが分かったのはあなた方のおかげだから、ついでにその隣の人物がだれなのか教えてはくれまいか。
「私の名前は、レオ=ミヤマリョーノ、デス。これ、誰か知ってまスカ?」
目的の名前を指して尋ねてみる。その先を確認した少女は、ぽかんとした表情を見せる。何度か確かめるように、少女の大きな目が指先と自分の顔とを交互に見比べる。
左右にふたつ結んだ髪が、それに合わせてふわりと揺れた。
「わかりまスカ?」
意味が通じなかったわけではないだろう。聞き方も間違ってはいないはずなのだが……。
名前にコンプレックスのある少女と、書いてある名前を見つけられなかった少年が初対面。
ドビンとレオの名前が並んでたら目立つかなーなんて。