雪待ち
「父上」 「零蔵か。伊賀ずきんの相手はもういいのか」 「やはりあの日記は父上のものだったのですね。では、紅い雪、というのも・・・」 「もう、昔のことだ。忘れていても無理はあるまい。  あの時、お前はまだ五つになったばかりだったのだから・・・」 「紅葉…」 「そうだ。木の上方に積もった紅い雪、お前の好きな雪景色だ」 そう言って父は、庭の紅葉が見えるように、母の背中を支えた。 「…ええ、確かに紅い、雪が…零蔵もご覧なさい…見える?」 葉は上から次第に紅く色づいていて、言われれば幼い零蔵にもそう見える気がした。 「はい、ははうえ。ちちうえのおっしゃるとおりです」 「そうね、本当に、なんてキレイなんでしょう…」 母はそう笑うと、すっと目を閉じた。 「ははうえ!?」「織香!!」 それきり、母の意識は途切れた。 もはや、残された時間は僅かであった。 「……」 「どうした零蔵、こんなところに座り込んで」 庭に一人、零蔵がしゃがんでいると、背後から父が現れた。冷えた身体がひょいと抱き上げられる。 「なっとらんぞ、こんな恰好で外にでるとは。最近はめっきり冷え込んできているのだから」 言って父は小さな手の平を自分の手で包む。 「……?空がどうかしたのか?」 何も無い空を、零蔵はじっと見つめていた。 「ちちうえ、いつ雪は降るのですか?」 寒空を見上げて、零蔵は尋ねた。 「……零蔵」 「まだ降らないのですか?あとどれくらい寒くなればいいのですか?」 幼い声は、静かな庭に静かに響く。 「ははうえが目を覚ました時に雪が降っていたら、きっと喜んでくださいます」 「……そうだな、きっと喜ぶだろう。しかし、寒くはなったといっても  雪が降るにはまだ温い。積もるのはもっと先のことだろうな……」 吐き出す息は白く、風はこんなにも冷たいのに、空は雲ひとつなく晴れている。 「…―もう、戻ろう。ここは冷える」 しとしとと、冷たい秋の長雨が降っている。廊下を走る零蔵の息が白く流れた。 「はぁ、はぁ……ははうえの、ご様子は?」 「眠っておられます。お話しになりますか?」 そう言うと、医者はすっと立ち上がり零蔵に場所を譲る。 あの日以来、母の病状は予断を許さない。 時折ふっと目を覚ましたかと思うと、すぐまた眠り続けるという昏睡状態が続いた。 細った身体は病の床でいっそう、それこそ雪のように白かった。 「ははうえ、庭の紅葉を拾ってきました」 眠ったままの母へ、零蔵は健気に語りかける。 「外は雨が降っていますが、寒くはありませんか」 「今日はちちうえに九字の印を習いました、今度お見せします」 「散っていく紅葉は、本当に雪のようです」 一緒に見たいもの、話したいこと、聞かせて欲しいことがまだまだたくさんある。 「もっと、もっと寒くなれば、じきに雨も雪になります……だから」 それ以上言わず、代わりに手の平をぎゅっと握りしめる。眠り続ける母に、自分の存在を主張するように。 その時、まるでそれに応えたかのように、白い頬に陰ったまつげが僅かに動いた。 「……零」 「!ははうえ!?」 「半蔵様を呼んで参ります!!」 側近が駆け出す。医者が慌てて駆け寄る。 これが最期だと、誰もが覚悟した。 「苦しくは……ないか?」 「……」 「寒くは?」 「……」 「何か欲しいものは…」 「……」 父の静かな問い掛けに皆、無言で首を振る。 「……そうか」 「すみません」 「謝ることじゃない」 「零蔵を、里を……頼みます」 「うむ…」 視線を動かした先に、よく映える紅があった。 「これは……零蔵が?」 「はい、庭で拾った、紅葉の葉です」 「そう……キレイね」 愛おしそうにそれを手の平にのせる。 「じきに、本当の雪が、降ります……あと、少し……っ」 ぎゅうと、膝の上で握り締められた小さな手にそっと触れて、母は言う。 「そんな顔、しないの。  雪はキレイだったという気持ちだけ残して、溶けてなくなってしまうけれど…  父上がこうして、私の手に残る雪を作ってくださったように、キレイを作るのは自分なのだと思うわ。  それを抱いてゆけるなら、こんなに幸せなことはないでしょう…だからもういいのよ」 「ははうえ…」 「………………」 「……」 「どうした」 「もういいと、ははうえはおっしゃいましたが、  この雨がもしも雪に変わったら、お喜びになるでしょうか」 ひたすら続く雨音の中で、並んだ大小二つの影。 「どうだろうな…」 「作れるでしょうか」 「お前が望み、成せないことなど無い。服部家の嫡男、私と織香の子のお前にはな」 秋雨が、紅葉を容赦無く散らす。息は凍る程に冷たいのに、曇天から落ちるのは水、水、水。 体温を、生命を、涙さえ奪って降り注ぐ。漂う悲しみを吸い取って、地に染み込んでゆく。 最期の雪。 庭は紅い雪を積もらせて、秋雨に濡れていた。 その雪を胸に抱きながら、母はその晩、しとしとと降る雨音の中、眠るように息を引き取った。 「今思うと、私があの術を覚えたのは、母上のことがあったからかもしれません」 「うむ、確かあれが、お前の最初に覚えた術のはずじゃ」 「実戦では滅多に使いませんけれど…  そうだ、庭の紙吹雪を掃除しなくては」 「よい、しばらくそのままにしておきなさい」 三角の色紙が庭を紅く染めていた。 「……そうですね、これもまた、気に入ってくださるでしょう」 幼い自分は、母が望むのなら、白い雪を降らせてやりたかった。 でも、紅でも白でも、母には関係なかったのだろうと、今は思う。 誰かが自分のためにキレイなものを作ってくれたということの方が、ずっと大事だったのだろう。 「さて、昔話はこれくらいにして、ちっとも反省しとらん伊賀ずきんに修業をつけてくるか」 「お供いたします」 歩き出す父に続く。 これからずっと、冬がこの庭を白く飾るたびに、紅い葉を大切そうに抱いた、母の顔を思い出すのだろう… そんなことを思いながら。
あとがき
全てはちび零蔵を抱っこする半蔵が書きたかったがために(黙れ)