『桜の国で』
春がきて、この国中に桜の花が咲いている。
ただそれだけのことが、幼い自分にはとても苦しかった。
「子羊、お花見に行きまショウ」
「嫌デス」
信者たちに誘われてご機嫌な神父たちを、幼い子供は一刀両断した。
興味ナイ、私にはわからナイ、と。
ふるふると細い首を懸命に振って、嫌だ嫌だと繰り返して。
「わからナイ?いったい何ガ…あっ、コラ!」
不思議そうな顔の大人たちを置いて、踵を返し寺の中へ駆け込んでいった。
「ふむ…あの子のほうが私にはわかりませんが」
「仕方ナイ、私が様子を見て来マス」
いぶかしがる信者に先に行くよう言って、神父が一人後を追った。
「子羊。」
そんなに広くもない寺の中、幼子は難なく見つかった。
けれど、連れていくのは相当骨が折れそうだ、と神父はため息をつく。
「何をそんなに怒っているのデス?」
日も入らぬような暗い部屋の隅、膝を抱えてうずくまったままで、扉に背を向けて動く気配は微塵もない。
「何かあったんデスカ?」
「……ない、デス」
「では何故?」
「……」
「やれやれ」
押し黙った幼子の、一歩たりとも外には出ナイ、というわかりやすい意思とワケのわからぬ意地を両方くみ取って、
仕方なく神父は部屋を後にした。
「気が変わったら来なさい、待ってますヨ」
そう言い残して。
「パードレ…?」
か細くつぶやいたはずの声が空気を震わせて、喧騒が遠ざかったのを知った。
痛いほどの静寂が訪れる。
「……」
動きたがるものは何もなく、ここだけ時間が止まったよう。
いや、実際に止まっているのかもしれない。
時間の流れにまで置き去りにされて、このままもう――
(そんなこと、ない)
今すぐ神父を追って走り出したい衝動をおさえ、落ち着こうと呼吸を意識しすぎたら逆に苦しくなった。
だったらと自分の鼓動に意識をむけて、それに合わせて吸って吐いてをしてみたら、
トトトトト、と駆け足のリズムにもっと苦しくなった。
(きっと、急に走ったから)
ばくばくと主張を強める心臓も一緒に抱き込むように、膝に顔をうずめる。
そのまま身を固くしながら、子供はぽつりぽつりと想いを紡いでいく。
――ここの人たちも、神父たちも、なんであんなに嬉しそうなのだろう?
あたたかい春を、喜ぶ気持ちに嘘はない。
それは生き物として、きっと正しいこと。
けれど自分は思ってしまったのだ。あのとき。
――花なのに。
――ただの花なのに。
ナノハナも花。スミレも花。タンポポも花。樹に咲く花ならウメも花。
何をして「花」とするのか、学術的な定義なんて知らないけれど、これくらいはわかる。
見たことはないけれど、そのサクラとやらも同じ花。
ただの花。たかが花。
でも、口に出したら、されど花。
異国でむかえた初めての春。
もちろんサクラはあちこちにあって、今日と同じく酒宴の準備も進んでいて。
お前も来るか、とご機嫌に誘われたハナミという名の儀式のようなもの。
今よりさらに幼い自分は、それに関する素朴な疑問を尋ねた。
――サクラって、ただの花でショウ?
――変なの。
他にも、色んなのがいっぱい咲いているのに、なんでそれだけ見に行くのかな…
子供心に思ったことが口をついただけなのだけれど。
――ただの、花。
「まあ…やっぱり異人さんだもんなぁ」
「無理ないさ、なあ」
ははは、と軽く笑い飛ばしてくれたけれど、失言だったということは相手を見ればわかった。
でも、どうしてなのかは自分で考えてもわからない。
わからないなら、聞けばいい。
でも。
わからないから、聞いたのに。
やっぱりわからない。さっぱりわからない。
尋ねた相手はとまどっている自分に気づいたのか、笑って、いや、嗤って?
――「あんたら」には、理解できなくても。
――「俺ら」にとっては特別なんだよ。
とてもわかりやすい答えをくれた。
言外にわからんやつは見るなと言われたようで、それ以来結局その花は見ずじまい。
頑なに拒み続けて、今に至る。
だからと言って困ることなど何もない。
近くまで寄って見に行く義務もない。
ましてその下で宴会する必要もない。
意味がわからない。
ああ、でも。
あのときは、わかった。
わからないんじゃなくて、「わかることができない」だった。
それならば仕方ない、と思ったのだけど。
ひとつ疑問が解決したら、ひとつ疑問が新たに浮かぶ。
――なんで自分は、わかれない?
――なんで自分だけ、わかれない?
――これ、一体、何?
心の中で呟く幼子の視線の先には、浮き足たつ人の群れ。
その流れる人波の向かう先には、これまた浮かれた淡紅色のかたまり。
春先になると遠目からでも妙に目立つ植物があることは知っていたけれど。
まさかそれが件の花だったとは。
幼子は反射的にその木々を視界から排除しようとする。
それでも動かした碧眼は遠く近く、そこかしこに同じ色を捉え続ける。
幼子は諦めて、うなだれたように自分の足元を見つめる。
そこにも、花のカケラが同じ色を携えて敷き詰められていた。
――…病気、みたい。
吸い寄せられるように集まる人々は皆一様にご機嫌で、まるで国中が熱病に冒されているかのよう。
自分とおなじ「あんたら」に分類されたはずの神父たちもにこにことご機嫌で、
幼子の困惑はさらにひどくなる。
神父たちは、あのとき言っていた「俺ら」になるのだろうか。
ならばなんで、複数形で自分を分けた?
「あんたら」とは、私といったい誰を指す?
混乱していくこの思考は、やはりあの樹のせいなのか。
ここの植物というのは土も空気も水も、自分の色で覆いつくしてしまったら、
最後には人心までも惑わすのか。
なんだか薄気味悪い、と自分の想像に身震いをひとつして、幼子は改めて前を見据える。
碧い眼に映る、春を席巻してほくそ笑む桜花の群。
自分には及ばない、得体の知れないその力。
――ただの花じゃないの?
たったひとり、正常な思考で。
――咲いただけでしょう?
たったひとつ、侵されなかった心が。
――何が、そんなに、楽しいの?
奇妙な苦さを味わうのは、何故。
道の脇でぽつんと佇む子供に気づく者はなく、ただぞろぞろと病人の行進は続いていく。
足音も聞こえる距離のはずなのに、四方をあの妙な花に囲まれながら楽しそうに笑いあう様子が、
幼子にはひどくひどく遠くに見えた。
色素の薄い金の髪はそのまま、周囲のパステルカラーに呑まれて容易く溶けてしまいそうだった。
春の空はどこかぼやけてほこりっぽい。
花粉やら砂やらに混ざって、あの樹からも何か変なものが飛んでいるのではないか。
肺に蓄積されて、じわじわと脳へとまわり侵食していく奇病の類。
そんな考えが浮かんできて、思わず息を止めたけれど、
それが原因ならとっくの昔に手遅れだと気づいてすぐ止めた。
きっと、長い船旅の間に、小さかった自分だけは消毒されきってしまったのだろう。
なぶるような海風を身体中に浴びて、潮の香をいっぱいに吸い込んできたから。
なるほど――納得できる、ような気がする。
そうでなくては、説明つかない。
いや、そうすれば、説明がつくのだからこれでいい。
「なんで」の理由は見つかったから、忘れてしまおう。
来た道を引き返しながら、そんなことを考えた。
――でも、だったら最初から
――「なんで」なんて思わなければいいのに。
歩調に合わせて吸って吐いてを繰り返していたら、やっぱりすぐに苦しくなった。
ここは息をするのも難しい国だと、幼子は妙な因縁をつけて元いた部屋へ速足で帰って行った。
春がきて、この国中に桜の花が咲いている。
ただそれだけのことが
たかがそれだけのことが
幼い自分にはとても苦しかった。
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