水底の夢
生きる糧を与える海。 生きる命を呑み込む海。 優しく残酷なこの海で、私たちは今も共にある。 「青いな・・・」 今日も私は崖を上る。 眼下に揺れる青い水面と、白砂輝く浜辺の色を見るために。 遥かかなたに水平線、空との境を為す海は、 いつ見ても広く穏やかだ。 きらきらと楽しげに輝きながら、 まるで私を招き誘うかのように静かな波が揺れている。 ――吹き抜ける潮風が心のうちへと広げる波紋は、 めぐりめぐってはるか水底まで伝わり続けていくのだろうか。 数年来続けたこの習慣に、もはや意味はない。 それでも私は、今もこうしてこの場所に立ち続けている。 まるでこれが、あの日から負わされている義務のひとつであるかのように。 あの日、いつものように家を出て、 いつものように潜った姉を、海は帰してくれなかった。 海女としてはそれなりに優秀で、 泳ぎも上手かった姉は、海に招かれてふらりと地上を捨てた。 「竜宮へ行ってしまった」 それはそういう意味なのだと、幼い私は解釈した。 母の言葉を疑えるほど、私は大きくなかった。 そこに含まれる意味を受け入れられるほど、私は強くもなかった。 浜で大人たちが騒いでいたことも 両親が隠れて泣いていたことも 知っていたけれど。 優しく残酷な海の底、今でも姉は、果てることない夢を見ている。 ぼーっとしてるからこんなことになるんだ、 長女のくせに家をほっぽり出して、と それからの私は姉に対して恨み言ばかりを言っていた気がする。 そういうとき思い返す姉はやはりへらっと笑っている印象しかなく それがよけいに癇に障った。 ――もしかすると、会いに行って頬のひとつでも殴ってやれば目を覚ますかも。 いつしか抱いた乱暴な思惑はそのまま消えることなく 毎日の仕事への不満も手伝って、 気がつけば竜宮探しは私の日課となっていった。 そうやって、ひとつ、またひとつと歳を重ねるごとに、 私は自分の姿が消えた姉にどんどん似ていくということに気付いていた。 それはまるで仕事だけでなく、 姉が放棄した地上の人生まで背負わされているように思えて 水鏡を見るのはひどく腹立たしくて、悲しかった。 「竜宮はともかく、三途の川って本当にあったんだな・・・」 ようやく知らされた、というよりは受け止めさせられた事実。 九年前にこの海へ呑まれた姉は そのときすでに歳を取るのを止めていた。 聞くところによると、やはり今の私と姉はうりふたつで、 妹の私を気にかけながらもへらっと笑っていたという。 それを喜ぶべきか、悲しむべきかはわからないが、 私が九年もの間見続けていた夢は泡のようにたやすく消え、 ある種の想いが残された。 ちくり、と胸にわずかな痛みが走る。 「・・・でも、だからと言ってそっちに行くつもりは――ない」 おもむろに息を左右の肺の隅々まで満たして崖から跳躍し、 青黒く口をあける水底へと飛び込む。 ――ざぱん。 身体を打ち付ける水音と、あがる高い高い水しぶき。 ――深く。もっと深くへ。 ごうごうとうなる海中の振動音と、陽の光に輝く泡沫に包まれながら、 底へ向かって水を掻き分ける。 キィン、と水圧に耳が悲鳴を上げ始める。 胸を締め付け、肺を掻き乱す暗色の空気を吐き出しながら、 次第に朦朧とする意識。 ――まだだ、まだ深く・・・ 金切り声で浮上を訴える本能に、 必死であらがいながら腕を伸ばす―― ――・・・ダメだ。 視界の先にはぞっとするくらいの深い深い青。 この青の向こう側、水底に沈んだ夢はこんなにも遠く。 一度たどり着いてしまえばきっと―― 「・・・・・・っは」 水面を割って息を吸い込む。ぴいとはかなく磯笛が鳴った。 荒い呼吸を整えながら額に張り付く髪を手で払うと、青空を泳ぐ無数の海鳥。 そのミャアミャアと鳴く鳥達の背景で、 上空の太陽が潮騒に合わせて規則正しく揺れている。 その射す日の眩しさに、思わず目を細める。 ――もがきながら息もできぬあの青い闇の先へ引きずり込まれた姉は、   二度とこの光を見ることはなかったのか。 「・・・熱」 どれくらいそうしていたのだろう。 じりじりと頬を焦がし出した熱線を避けて立泳ぎへと体勢を変える。 すっと顔を水面に向けて伏せると髪を伝い落ちるものとは別に、 瞳から数滴の水がこぼれた。 ――なんだ、今更・・・。 ぽた、ぽた、と瞬きの一定のリズムで生まれる小さな波紋をうつむき見つめる姿は、 まるで何かに許しを乞いているかのようで、思わず苦笑が漏れた。 「・・・もっと婆さんになったら、会いに行ってもいいかな。 あいにく私はナミコ姉みたいにドジじゃないから、当分溺れる予定はないけど」 聞こえるはずのない憎まれ口を叩くと、静かな水面に写る輪郭は 自分のもののはずなのに、なぜか姉が笑ったような気がした。 今も昔も変わらぬ海に、もうひとしずくだけ涙を落として、 私はまた大きく水を蹴り上げ水中へと潜る。 ――亀だなんだとさぼっていた分、また忙しくなりそうだな。 感傷も涙も呵責も、全てこの優しくて残酷で、それでもずっと変わらない海へと 溶かし込んでしまえばいい。 泣けなかった、恨んでばかりだった、祈れなかった。 でもそんなの背負って溺れるなんてつまらないし、消えた夢を思ってもなんの意味も無い。 ――長生きしてやる。 あの崖から飛び込むのは、これで最後にしよう。 どんなに高く跳躍し、どれほど深く潜っても、今の私にあの青闇は越えられない。 越えてはいけない、そんな気がする。 今も昔もこれからも、変わらずに続く毎日を 私は誰より強く強く、泳ぎ渡っていくのだから。 ――姉を奪った海に生かされ、今日も私は生きていく。 Photo by (c)Tomo.Yun
あとがき
実はかなり前に書いてたナミコ姉さん追悼駄文(ケータイ時代にさかのぼるほど)
コナミさんいくらなんでも九年間一度も死んでる可能性を疑わなかった、
なんてことは無いかなと(お母さん普通に菊の花持ってたし)
よく泳ぐものは溺れる、といいますからきっとナミコさん泳ぎ上手かったんだろーなーとか、
崖にのぼってから仕事、が習慣だったんだろうなーとか色々ねつ造詰め込んでみました。