世界が赤いということを、私は生まれて十年経つまで全く知らずに育った。
柔らかな花の色、空の青さ、木々の緑。それが世界の持つ色。その全てが眩しく、美しく、愛おしく。私は心の底から、自分の世界を信じ、愛していた。
それなのに。
覚えているあの日は緋色――
まるで目の中まで焦がされたみたいに、この瞳は燃える赤しか映さなかった。




「――…?」
夜。ごく普通の小さな農村の一画、こじんまりとした部屋。怒声とも悲鳴ともつかぬ音がして、一人の少女が目を覚ました。
月は高いらしく、朝にはまだ早い。布団から身を起こした少女は少しむくれて、怪異の正体をつかもうとキョロキョロ左右を見渡した。
いきなりで内容は吹き飛んでしまったが、いい夢という意識はあったのに。変に目が冴えて眠れなくなった。いったいこのざわついた空気は何なのだろう?
ふと、隣でのんきに転がっている妹が目に入り、はらいせに起こしてやろうかと腕を伸ばした。刹那――
「放て!!」
さらなる音が彼女の鼓膜を襲撃した。




ごうごうと火がはぜる音がする。燃え盛る緋色が、村を焼いていた。
逃げ惑う人々を切り伏せる刀が、火の粉に混じって濡れた赤い雨を降らす。
黒い大きな影が、刀を片手にこちらに向き直るのが見えた。
(見つかる!!)
少女はさっと妹の手首をつかみ、積まれた死体の影に身を隠した。
「あねうえ?」
「相手は大人、逃げてもどうせ追いつかれるんだから。動いちゃ駄目よ」
「あねうえ、あねうえ」
「静かにしろっ!見つかるでしょ!」
「なにが、起きてるの?こわい、こわい……」
おびえて今にも泣きだそうとする妹の口をふさぐように、小さな体がさらに小さな体をきつくきつく抱え込む。
何が起きてるのかなんて、こちらが聞きたいくらいだ。いい夢から引きずり起こされ、外に出れば一面の火の海で、人に刃物が突き刺さっていて。
とにかく、今は動いてはならない。
少女は息を殺して身を縮め、変貌していく世界をただ見つめた。

子供の泣き声、馬のいななき、猛り狂った侍の怒声。
転がる骸、崩れる家屋。
煙に混ざって何かが焼ける嫌な匂いがする。
肺を焦がさんばかりの熱気は、正しい呼吸も許さない。
身動きできないまま、一方的に刺激される五感は苦痛しか与えてくれない。
なのに、自分にはこの理不尽な暴力を止める手段がない。
「ふ、ざけんな……!」
世界というヤツに胸ぐらがあるなら、思いっきりつかんで叫んでやりたかった。
こんな醜くて恐ろしいものがあんたの本当の姿だったのかと。
こんなものを信じて愛して、私は今の今まで生きていたのかと。
自分に語りかける世界全てが、自分が生きることを歓迎しているかのように思えていた。
その生かされているという錯覚に、ただ安心しきって身を任せていたのかと。
「……――っ」
耐えきれずに、目を閉じ耳をふさいだ。
非力な少女はそれ以外に、抗う術を持たなかった。
赤い世界の裏切りを、これ以上見たくなかった。
どうか、どうか。
再びこの目が映した世界は、美しくありますように。
信じたものでありますように。
ただそれだけを祈りながら。










「――っ!」
浅い眠りが突然覚めた。全身がじっとりと汗をかいている。
炎に囲まれていたから、と一瞬思ったが、ちゅんちゅんと穏やかな鳥の声が聞こえてきて、それが冷や汗にすぎないことを悟った。
見慣れない天井と、障子からもれる淡い光。
「ああ、甲賀の、里。」
ややあって、夢から現に、過去から現在へと意識が戻る。
ここは、昨日、望月千代女に連れられてきた場所だ。
出雲守に引き渡され、とりあえず休むように通された座敷だが、ろくに見もせず横になった。
山中を分け入り、歩き通しでさすがに疲れ切っていたのだろう。身体を横たえた途端、ストンと寝入ってしまったようだ。
「ここは、甲賀の里ね。」
もう一度かぶり直した布団からは知らない家のにおいがする。
「夢だったのね。」
さっきまで見ていたのは夢だ。けれど、実際にあった事でもある。
もう家も村も、何もかもなくなってしまった。頼れるような肉親も、焼け死んだか殺されたかのどっちかだろう。あの悪夢のような夜があけて、焼け跡にいくら目をこらしても、自分たち姉妹以外の動くモノは見つからなかったから。
「でも、それでも、生きてる。」
口まで覆った布団でこもってはいたけれど、自分の耳に確かに響いた声。
私は生きている。運がよかった。妹みたいに聞きわけはよくないのに、ワガママまで言って、ここまで来れたのだから。
現状をひとつひとつ確認して、少女は大きく息をついた。
嫌な汗はもう引いている。恐れることは何もない。

あのふすまを開けば、光が射してきっと綺麗な世界が私を待っている。
戦乱で何もかも失ったけれど、愛した世界はこの手にまだある。
裏切られた気がした。絶望しかけた。それでもやっぱり愛おしい。
――だから、もう世界の裏切りを許さない。もう二度と裏切らせたりはしない。
強くらならなくちゃ。
私が愛する世界のために。






「おい……出雲守様がお呼びだ」
布団を畳んで、着替えをしていると声がして、ふすまが開かれる。まずい、寝すごしてしまったか。
「まだかかるか?」
「もうすぐ」
慌てて着物を羽織って結びかけの帯をしめたが、髪はどうしよう。下ろしたままというのは失礼かもしれないし、頭のてっぺんでひとつにまとめる。これでとりあえずはいいだろう。
「よし!」
気合い十分に振り返ると、ふすまの向こうが緋色に染まっていた。
炎で焼けただれたような痛ましい色ではなく、やわらかな朝焼けの光の色。
それが無性にまぶしくて、嬉しかった。
「……こっちだ。」
一瞬不思議そうな顔をした背恰好も年も大して変わらない声の主に案内されて屋敷を歩く。忍里というから、もっといかつくて殺伐とした雰囲気の人間ばかりなのかと思ったが、こういう自分と同じくらいの子どもや、下働きのような女の人もいるのは意外だ。さすがに強面の大人の中に放り込まれて全く心細くないと言えば嘘になるので、内心少しほっとした。
「――着いた」
と、考え事をしていたらもう目的地についたらしい。
「くれぐれも失礼のないように。」
無口な案内役はそれだけ言うとすっと姿を消してしまったので、とにかく指差された先にある庭園へと足を踏み入れる。
季節は桜の見ごろもとうに過ぎた頃、初夏と呼ぶにはまだ少し早いくらいで、色々な花や緑がきちんと手入れされて庭中を彩っていた。
その中でもひと際目立つ、花弁の大きな赤い花がある。
そして前にたたずむ人影を、少女は知っていた。
「あの…」
「おはようございます。昨夜は疲れていたようでしたね、よく眠れましたか。」
「あ、はい。布団入ってすぐ寝ちゃいました。」
「ふぉっふぉ、それはよかった。さ、こちらへ。」
手招きされるがまま、花の傍へと寄る。
「改めて、甲賀の里へようこそ――ええと、千代女殿には確か名を……」
「まだいただいてません!」
嘘である。
「あ、いや…もらったはもらったんですけど、あれは巫女になるための名前ですよね!?あれは甲斐であの方の下生きる人のための名です。私は今日からここで忍になることにしたのだから、もうあの名前は使っちゃいけないと思うんです!!!」
「おやおや。」
「でっ…出来れば心機一転ということで、ここで暮らすのにふさわしい名を名乗るべきだと私は思うんです!!とにかく前の名前はすっぱり忘れた方がいいと思うんです!!!」
「ふぉっふぉっ!」
慌てる少女を見て楽しげに笑う出雲守の手元で、ハサミがパチンと音を立てた。
「分かっていますよ、あの方の名づけの感性は独特ですからね――さあ手を出して。今日からこう名乗るといい。」
そう言って小さな両手にふわりとのせられたのは、赤くて大きな花弁の花。
「――…花?」
「そうです、それは牡丹の花。威風堂々として綺麗な花でしょう。」
「牡丹……花の名前。」
「おや、気に入らなかったかね?よく似合うかと思ったんだが……語呂や響きも悪くはないと」
「いえ!!!すごく素敵だと思います!!あの、そうじゃなくて…ただ」
「ただ?」
「だって、そんな、花の名前なんて――可愛くて、そんなのまんま、女の子みたいじゃないですか。」
「……おや。まさか千代女殿がおのこを連れてくるとは思わなんだ。私はてっきりおなごだと思っておったのだが、違うのかね?」
「違う、ことはないです。でも違います。私は女の子として忍になりたかったんじゃない。」
歩き巫女、情報蒐集を生業としたくのいちの集団。人に媚び、色を売ることで信用を得、情報を引き出し世を渡り歩く。これらはいわば弱い女の持つ弱い強さなのだと、あの人は言った。
「でも、千代女様の教える強さは、私の欲しいものとは違ったんです。」
女の細腕でこの戦乱の世を生き延びるには、その方が賢いのかもしれない。けれど、自分はそれをどうしてもよしとは思えなかった。
「女として強くなりたかったら、最初からあそこを出てきたりしない。妹を置いてここまで来たのは、くのいちとしてではなく忍として強くなりたかったからだわ。だから…」
「ふむ。なるほどなるほど。」
「お願いします。私も女の子としてじゃなくて、『普通』の修行がしたいんです。」
「――…ふぉっふぉっ、本当に、勇ましいことだ。なおさら牡丹の名にふさわしい。」
「え?」
「知っていますか、牡丹の異名は『百花王』『花中の王』――見た目は女性らしい花でありながら、同時に自ら玉座に君臨する王の威光を備えている花です。それに、牡丹の「牡」は「オス」、つまり男性を意味する字も持っている。さしずめ『雄々しき赤』とでも言いましょうか…」
「百花の王、牡丹。」
「生まれ持った身体の性別を変えるのはとても難しい。これからどんどんあなたの外見は女性らしくなっていき、周囲も見たまま女性として扱う。どうしたって『女(くのいち)』であることからは逃れられません。それは仕方のないことなのです。それでも妃や姫として寵愛されるような存在が嫌なのであれば、雄々しく赤い『百花王』ほどふさわしい名前は他にないのではないかと」
「……はい。なんだか話を聞いていたら、すごくそんな気がしてきました。」
漢字や言葉の意味は少し難しかったけれど、言いたいことはすごくよく分かった。
この花には、ただ綺麗だ、美しいと愛玩されるだけの花以上の意味がある。それならば、これ以上自分が望む名前は他にない。あの『こんぶ』に比べれば、いやそれ抜きにしたってとても素敵でふさわしい名前だ。
「それはよかった。」
「あ、でも、牡丹って他の人が聞いたら、やっぱりただの花の名前と思われるのかな…」
「ふぅむ、確かにそれではいささかもったいない。おなごにオスの字をそのままというのも――ではこうしよう。『ぼたん』、もらうのはこの響きだけにしておきましょう。」
「牡丹じゃなくて、ぼたん?」
「そう、私もただ愛でられる花におさまらないでいて欲しいですからね。」
節ばった手が、くしゃりとぼたんの頭をひと撫でした。
「ぼたん、日々精進し、花以上に美しく気高い存在――百たるくのいちの王となりなさい。
 牡丹のその名に恥じぬよう。」
「……はい!」



「――さて、では早速修行を、と言いたいところですが。『普通』の修行はまだ早い。」
「え?」
にこにことした表情のまま、出雲守は空を仰ぐ。
「何事もはじめが肝心。技術よりも、まずは基礎的な体力や知識を得なくてはなりません。ただ歩くこと、ただ走ることにも常人離れした鍛錬が要るのが忍です。さらに、花を活けたり、読み書きを練習したりといった精神の修養もせねばならない。」
「はあ」
ようやく修行らしい修行をさせてもらえる、と思っていただけに肩透かしをくらったが、一番偉い人が言うのだから仕方ない。
「そこで、里で同じように修行している先輩に、ぼたんの当面の面倒を頼みました。ちょっとついて来なさい。」
「はい。」
朝餉のにおいがただよう廊下を進みながら、先輩って、どんな人だろうかと考える。甲斐巫女修練場には3、4歳、もしくはそれ以上と思しきお姉さん方がいっぱいいたから、ここでもそんな感じで勉強するのだろうか。どうせ色々教わるなら、頼りがいのある腕っぷしの強い尊敬できるような人がいいなぁ…などとぼんやりとした希望を持ってみたりしつつ少女はもらった名前と同じ花を、大事そうに両手で包んだ。

世界が赤いということを、私は生まれて十年も経ってから、ようやく知ったけれど。
それでも。
赤い世界の中心に、赤い花では意味がない。同じ赤では目立たない。
だから――
私が中心にいる限り、世界はもう赤一色になど染まらない。染めさせはしない。
目の奥まで焦がさんばかりに、この咲き誇る赤を知らしめてやろう。

赤い世界の中心で、咲いたつぼみは誰より赤く。


「牡」「丹」って漢字のひとつづつを見て「雄々しき赤」と解釈したら途端に女の子っぽくなくなる不思議。キャーボタンサンステキー。ついでに平仮名な理由としてこじつけました。ねつ造ばんざい。
あと出雲守様は『甲賀ずきん』の語呂の悪さが許せないくらいなので、自分が付けるときもすごくこだわってたらいいと思います。そして内心は千代女様の素っ頓狂なネーミングセンスに「……」って感じだったら笑えます。