心預けて
返り血を浴びる。 自らの血を流す。 失うモノは同義。 斬撃をかわすことなどたやすいが、自らがつきたてた刃先から吹き出す鮮血ともなればそ うはいかない。 べっとりとまとわり付く不愉快な感触。 篭ったような断末魔。 漂う死臭。 骨を絶つ感触。 自分も部屋も一色に染める色素。 淡々と「後始末」をしながら、それらに関する一切の感覚は麻痺している。 それすらもう気付かない。 洗っても拭っても、染みは着実に濃くなっていく。 絡み付く怨みや呪訴とともに、いつか骨の髄まで侵される日がくるだろうか―― 我ながら途方もない想像をしている、と苦笑を――もらそうとしても、頬はなぜか弛緩を 許さなかった。 音もなく立ち去った暗闇の中に、ごろりと転がる死体がひとつ。 着ているものは若向きのものだが、年の頃はわからない。 ――首から上はついていなかった。 仕事を早々に完遂し、まだ夜も明けぬうちに里の門をくぐる。薄い雲に霞んだ月は天頂か ら滑り落ち始めてはいるが、翌朝までには十分時間がある。 仕事は素早く、的確かつ簡潔に。それが互いのためだと心の内でひとり頷く。 「・・・・・・?」 しばらく仮眠でも取るか、と足を進めた先に、ぽつんと佇む人影。 今夜は曇り、光源は心許ない月明かりのみ。本来なら人物の特定は難しいはずだが、ここ からでもよくわかる不自然なほど豪快にはねたくせ毛でその正体は明白だった。 「・・・・・・」 見習いたる者、日々精進し日夜修行に励め、とは言ったかもしれないがこんな半端な時間 に庭のど真ん中で頭上を仰ぐ姿は明らかに異様である。 無視して行こうとも思ったが、入浴習練場へ行くには少女の後ろを通らねばならない。他 のところを通ればいいのだが回り道させられるのもなんだか癪だった。 「・・・・・・」 しばし考え、そのまま進むことにする。ずしりと重い荷物を持った右腕はだるく、ため息 交じりに抱え直した。 「わぁっ!?」 「・・・・・・」 いきなり近づいてきた気配に、不審な行動をしていた人物は案の定素っ頓狂な声をあげ る。 「わ、れ、零蔵様・・・!?何故ここに・・・」 「・・・・・・」 「あ、あの・・・?」 口を開くのもなんだか億劫で、だんまりを決め込む。自分の胸にも届かない小柄な身体が わたわたと慌てる様子をぼんやりと見下ろす。 「あ、あのですね!」 沈黙を怒りととったのか、何か後ろめたいことでもあるのか、あるいはその両方か。聞い てもいないのに勝手に弁解を始める。 「昼間は雨でしたが本来なら今夜は仲秋の名月でお月・・・じゃなくて!さっき外を見た ら雲が薄くなってきたからもしかすると今からでも・・・いや、あの、だからですね・・ ・」 勝手に墓穴を掘り始め勝手に深みにはまっていっている。滑稽だ。 「・・・・・・」 「ご、ごめんなさい・・・」 今度は耐えかねて勝手に折れた。間抜けだ。 「・・・・・・別に何も言ってないが」 「あ、はい。それはそうなんですがあんまり零蔵様が何もおっしゃらないので・・・つ い」 言いながら少女が改めてこちらに向き直る。 「あ、もしかして零蔵様も――」 言いかけた瞬間、ざあと強い風が通り抜けた。 流されて頭上を雲が滑る。 切れ間から垂れる光の布。 闇が影へと凝縮される。 今宵は望月、焼き尽くさんばかりの白光。 照らされて浮かぶのは―― 「――・・・!!」 光が通り抜けたその一瞬、ただでさえ大きな瞳をほぼ真円に見開く少女の顔――と同時に 影は溶け出しあたりは元の暗闇に還る。 取るに足らない雲の気まぐれ。 「れ、零蔵様・・・」 「・・・・・・?」 すでに表情は見えないが、声音でだいたい想像はつく。怯えたような、驚愕したような、 畏れているような―― 「それは、まさか、血・・・」 「!・・・・・・」 先刻たっぷりと浴びた返り血はまだ濡れていて、月になぞられ光を反射した。よりによっ てろくに忍務も果たしたことのないこの見習いの目の前で。 ――・・・見たくはなかっただろうな。 忍のくせに、月を望むような未熟者は特に―― 「だからさっきから口数が少なかったんですね!?」 「・・・・・・・・・は?」 人の思考を完璧に無視してなぜか少女は一人で大騒ぎしていた。 「何を呑気に立ってるんですか!!早く止血しないと・・・」 「おいこら」 「よく見たら顔色も悪いし辛そうじゃないですか・・・今薬箱取ってきますか ら!」 人の話も聞かずぱたぱたと走って行く姿に、不覚にも呆気にとられる。 どうやら自分が大量出血をしていると勘違いされたらしい。 「・・・・・・ばかずきんが」 ――これが全て自分の血ならば、立っていられるわけがないだろう。 ――この私が、そんな致命傷を負わされると思うのか? ――自分は一滴の血も流していないのに―― 呆れてやれやれとため息をつきながら、この血が誰のものか、説明する気は到底起きな かった。 「・・・・・・温いやつだ」 とりあえずやり過ごそうと上った屋根から、右往左往している少女を見下ろす。 いつもあの柔らかな髪を撫でる手のひらは、体液と脂でぬらと鈍く光った。ほんのりと淡 い仲秋の名月は、己の汚れを冷たく突き付ける。 忍が闇に生きる理由は、そこにもあるのかもしれない。黒い衣に染みたそれは重たくて、 立ち上がる気も起きなかった。 「零蔵様の非道!鬼畜!天然!平気なら早くそうと言って下さい!あのあと屋敷中を走り 回って師匠に怒られちゃったじゃないですかーっ」 朝だ、と認識するより早く、眠りから覚めたばかりの頭にきんきんとした声がこだます る。朝っぱらから元気なことだ。夜通し走り回っていたとはとても思えない。 「・・・・・・うるさい」 「心配したんですよ!」 「それはご苦労」 「・・・本当にどこも痛くないんですか?」 「かすり傷ひとつないのに痛がる理由がない」 「でも・・・やっぱり痛そうでしたよ」 「一瞬見えただけだろう。錯覚だ」 「・・・・・・他の人の血だったんですよね」 「ああ」 「・・・・・・なら、心が痛むということもあるんじゃないですか」 じっと見つめてくる目線を受け止める。 「――・・・違うな」 仮にそんなものを持っていても、とうに失くしている。 ――心とやらは人との間に生じるのだろう? 凝固した血液がじわじわと関節の自由を奪っていくように、落として、拭い、また浴びる を繰り返すうちに、身体全てがこの色に染め上げられるだろうか。 ――それでも別に構わない。 ないものを、蝕むことなどできはしないのだから。 「違うって・・・」 「そんな面倒なものは忍務に不要」 ――避けられない血があるのなら、ここに預けておけばいい。 ――月すら望むようなお前との間にあるなら。 血溜まりの中、この身が朽ちてしまっても。 ――心、くらいは。 最期まで、汚れの届かぬ場所にあるように。 「・・・いいからお前は呑気に月見でもしていろ」 怪訝そうな顔をした見習いを無視して、ぽん、と軽く髪に触れた。 強張り続けた頬がふと緩む。 戒めが解けたかのようだった。
あとがき
零蔵様の一人称は本っ当に難しい…。
「消される」のは裏切り者や罪人とは限らない。
そして優秀で忠実であればあるゆえに逃れられない、という勝手な妄想。